| HP東善寺 林田藩と小栗家ほか ●● 林田藩と小栗家 道子夫人・家臣塚本真彦・蜷川新 |
| 播州林田藩1万石と小栗家 つながり三つ |
|||
| 1 小栗道子夫人は林田藩主建部たけべ政醇まさあつの娘 | |||
| 2 塚本真彦は元林田藩士で道子夫人の付人として小栗家に移る | |||
| 3 顕彰慰霊碑の碑文揮毫者蜷川にながわ新あらたは道子の妹はつ子の息子 |
| 1 道子夫人は 播州林田藩主(姫路市林田町) 建部政醇の娘 道 子 Michiko Daughter of Masaatsu Tatebe, Lord of the Hayashida clan in Banshu Province |
|
|---|---|
◇小栗上野介の妻道子夫人は、播州(兵庫県)林田藩主建部政醇(たけべまさあつ)の長女。 - Mrs. Michiko Oguri, wife of Kozukenosuke Oguri, is the daughter of Masatsu Takebe, the lord of Hayashida clan in Banshu Province (today's Hyogo Prefecture). 林田藩主建部たけべ氏 建部家の遠祖は倭建命(ヤマトタケルノミコト)とし、「建」部と表記する。 ◆高光(寿徳と号す)━光重━政長━政明=政宇(政明弟)━政周━政民━長教=政賢(長教弟)━政醇(号聖岡として『小栗日記』に登場)━政和━政世=揆(政和弟)=秀隆(九鬼隆都子、子爵)━光麿 |
|
| 建部家の家紋 | |
![]() ![]() ▲二つ蝶の「建部蝶」 ▲三つ蝶の「建部蝶」 |
|
![]() ![]() ▲林田小学校の校章 ▲林田中学校の紋章 小学校も、中学校も「建部蝶」を校章に用いていることから、江戸時代~明治まで建部氏の 改易がなく続いた町民との絆があり、その歴史を大事にしてきた人々の心が伝わってくる |
|
| 第8代藩主政醇と小栗忠順 | |
| 「此建部家に折々小栗上野介は、機嫌奉伺として行かれた事がある。其の当時の事を其の旧藩士等が余(蜷川新)の少年時代、余に談りし事があったが、彼等曰く、 『小栗上野介は、年ワズカに十四歳の頃であったが、初めて建部家の客となりて来邸せられし折、恰あたかも其挙動全然大人の如く、言語明晰、音吐朗々、応対堂々として既に巨人の風あり。 未だ十四の少年にてあり乍ら、煙草を燻くゆらし、煙草盆を強く叩き立てつつ一問一答建部政醇藩主と応答し、人皆其高慢に驚き乍ら、後世には如何なる人物となられるであらうかと噂し合った』と 小栗上野介は、子供の時より頗すこぶる高慢であり、非凡なりしが之れを以て能よく窺われる。」(蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』日本書院・昭和3年) ◆政醇は号聖岡として『小栗日記』に時々登場する ◆蜷川新 は 国際法学者・同志社大学、駒沢大学教授・母ハツは建部政醇の娘で小栗道子夫人の妹。 昭和三年に著書『維新前後の政争と小栗上野の死』(日本書院)で、小栗上野介主従を無実の罪で殺害し家財道具を売り払って軍資金とした明治政府の所業を鋭く指弾。昭和初期のベストセラーとなった。昭和7年に地元民が建立した顕彰慰霊碑(倉渕町)の碑文「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」を揮毫。ほかに『維新正観』・『小栗上野介』など。 |
|
![]() ▲「聖岡」と呼ばれる台地に陣屋があった ▲陣屋の復元図 藩主はほとんど江戸住まいであった |
|
| 道子夫人 | |
| 「小栗夫人は、会津戦争の済みし後東京に戻られ、深川に在りし三井家の大番頭三野村の屋敷に養われた。夫人の実家建部家は小藩なれども当時は一大名として、依然東京神田明神下の邸にありしも、夫人は之に頼られなかった。蓋し、三野村は、後節に記述する所の如く旧幕時代に於て、小栗上野介の恩顧を受けた人であったのである。その後夫人は不幸の生活の中に他界せられた。夫人は建部家に生まれたる兄弟姉妹中の最も賢明の夫人と言われた。余も幼時此の夫人が折々余の家に来られ、余も母に伴われて此の賢夫人の小さき貧しき深川の住居を訪へるを記憶して居る。夫人逝かれて後、建部子爵家にて其の遺児国子を世話せらるる話もあったが、大隈重信夫人が上野介の親族なりし所より(夫人は旗本三枝家の出である)国子は、大隈伯爵家に引き取られ、次いで大隈家より名士矢野文雄に乞ひて其の実弟貞雄氏を迎へて国子に配した。国子夫人は温良恭謙にして、事理を能く辨へられたる貞淑の夫人である。今一男あり、名を又一と呼ばれて居る。」 (蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』日本書院・昭和3年) 「当時夫人に伴せし人々の忠誠や其他小栗家に事つかへし人々の献身的行動は実に敬服すべきものがあり、『上毛及び上毛人』に詳しく掲げられ美談として上州人の間に伝へられつつある。」(蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』日本書院・昭和3年) |
|
![]() ▲三野村利左衛門 元小栗家中間で理財の才覚を 活かして三井の番頭となり、明治以後の三井をあらしめ、 東京に戻った小栗道子夫人家族を保護した |
▲大隈重信 大隈綾子夫人は小栗忠順の従 姉妹で幼時に小栗家で育てられた恩があった。 遺児国子の婿に矢野貞雄を宛て、仲人を 前島密に依頼して快諾を得た。 |
| 2 塚本真彦は元林田藩士で道子夫人の付人として小栗家に移る 小栗家家臣塚本真彦 |
|
![]() ▲ワシントンにて |
|
| 遣米使節目付 小栗豊後守忠順 從者9名の一人 渡米…日本~太平洋~ハワイ~サンフランシスコ~パナマ~ワシントン~ニューヨーク~大西洋~インド洋~インドネシア~香港~日本 西軍に殺害される 1868慶応4年閏四月七日、小栗又一忠道に随従して高崎城内で又一とともに斬首される 家族の殉難 権田村へ随従していた家族は、七日市藩の知る辺を頼って逃れる途中山中で殉難した |
|
| 見つかった馬の鞍に「三つ蝶」 | |
| ◇2014平成26年5月、東善寺の古くなって使っていなかった土蔵を解体したところ、古びたホコリまみれの馬の鞍と鐙(あぶみ)が見つかった。ホコリを払ってよく見ると、鞍には蝶の家紋が付いていた。どこかで見たことがある……調べると建部家の家紋「三ツ蝶」であった。 ◇小栗家の用人塚本真彦は、道子夫人が小栗家へ嫁ぐに際して建部家から移った家臣であるから、この鞍は塚本が使っていたものと思われる。 ◇塚本一家は主君小栗忠順の移住に従って、真彦・母マキ・妻・長女シサ・次女◯・三女◯・長男◯、と計7人家族(幼男女4人・と大人3人)で権田へ移住し、東善寺に仮住まいしていた。 ◇小栗忠順主従の災難に際して、塚本一家も悲劇に見舞われている。詳しくはコチラ…下部に塚本一家の殉難 Horse saddle of Tatebe Family found In May 2014, when Tozenji's old and unused storehouse was dismantled, a horse saddle and stirrups were found, with the family crest of the Tatebe family, "Mitsu-cho (three butterflies)" on the saddle. Masahiko Tsukamoto, a retainer of the Oguri family, moved from the Tatebe family when Michiko married into the Oguri family. Therefore, this saddle is believed to have been used by Tsukamoto. The Tsukamoto family moved to Gonda with a total of seven members (four young children and three adults) and temporarily resided at Tozenji Temple. The family members were Mahiko, his mother Maki, his wife, daughter Shisa, two other daughters, and a son. The Tsukamoto family also suffered a tragedy after Tadamasa Oguri was killed. For more information, click here. |
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
| ▲中央が鞍で家紋が付いている。左右が鐙 鞍のあて布類はボロボロだった。裏側に「延宝八年(1680)二月」と製作者の花押が彫られている。 In the center is the saddle with a family crest. When the saddle was found, the saddle cloth was in tatters. On the back of the saddle, the maker's seal is engraved with the words "February, 1680." |
▲建部家の家紋「建部蝶」(上)と 「三ツ蝶」(下) The Tatebe family crest "Tatebe Cho (Butterfly)" (above) and and "Mitsu-cho (three butterflies)" (bottom) |
| 3 顕彰慰霊碑の碑文揮毫者蜷川にながわ新あらたは道子の妹はつ子の息子 蜷川にながわ新あらた |
|||
| 顕彰慰霊碑建立の苦心 ◆昭和四年、上野介の無実の死を悼む倉田・烏渕両村民の浄財により、上野介主従が殺された河原に慰霊の石碑を建てる計画書が、高崎警察署に出された。明治政府への批判を恐れて表現の自由を制限していたから、こうした建碑は内務省に届けて許可を得なければ建てられなかった。 内務省の窓口は警察署である。まもなく高崎警察署長から建碑責任者の市川元吉元村長に呼出しがあった。出向いた市川に署長は告げた。 「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる、と碑文にあるが、斬ったのは官軍だ。官軍は天皇様の軍隊だから、罪のない者を斬るはずがない。【罪なくして…斬らる】、とは穏やかでない」 とのクレームであった。 困った市川元吉元村長は村へ戻ると、碑文を書いた国際法学者蜷川新博士に手紙で報告し相談した。蜷川の母はつ子は小栗上野介夫人道子の妹で、元旗本の家に生まれた蜷川は苦学して国際法を学び国際法学者として同志社大学、駒沢大学で教え、総理大臣田中義一の国際問題顧問をつとめていた。そして昭和初年に著書『維新前後の政争と小栗上野の死』で上野介の無実の死を書き、明治政府の処置を厳しく糾弾していた。 まもなく蜷川から「待っていなさい。田中義一に話をつけさせるから」と返信があり、その後署長の話は沙汰やみとなり昭和7年5月5日署長も出席して無事除幕式にこぎつけ、今も無事に碑が立っている。 参照 HP東善寺>「勝てば官軍」は権力者のおごり |
|||
|
関連ページ ◆会津へ逃れた道子夫人◆勝てば官軍は権力者のおごり…蜷川新と小栗家 ◆建部氏と家紋「建部蝶」(リンク) ■小栗上野介顕彰は会津へ逃れる道子夫人護衛から始まった ■父忠高の墓・大隈夫妻が墓参(新潟市) ◇父・小栗忠高の墓・墓碑銘(新潟市) ◆帰郷後、館林から小栗父子の首級を盗掘・取り返した中島三左衛門らの「お首級くび迎え」 ■会津で初の「小栗上野介資料パネル展」 ■「歴史の道」秋山郷への山旅 ■仁義併存碑 会津逃避行を護衛した村人・関係者の芳名録 ◇『会津人群像』№6へ戻る ◇小栗上野介顕彰会機関誌『たつなみ』 |
Related Pages ◆The Tatebe clan and their family crest "Tatebe Cho (Butterfly)" (link) ■ Activities of honoring Kozukenosuke Oguri began with the escort of Mrs. Michiko to Aizu. ■ Mr. and Mrs. Shigunobu Okuma visited the grave of Tadataka Oguri, Kozukenosuke's father. ◆ Welcoming Oguri's head to Tozenji Temple: Gonda villagers stole and retrieved the heads of Kozukenosuke Oguri and his son ■ The first "Kozukenosuke Oguri Data Panel Exhibition" in Aizu ■ Mountain trip to Akiyamago along the "Road of History" |