| HP東善寺 不毛の尊王攘夷運動 ●● 日本の近代化を阻害した 不毛の尊王攘夷運動 |
| 日本の近代化を阻害した 不毛の尊王攘夷運動 |
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幕末の近代化に最も障害になったのが「不毛の尊王攘夷運動」だった― 帰国しても米国の見聞を語れない国 |
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遣米使節一行が地球一周・約10ヶ月の旅を終えて帰国したのが1860 万延元年九月二十八日。 半年前の三月に井伊大老が桜田門外で水戸浪士によって暗殺されていたから、攘夷の世情が盛んとなり盛大な帰国歓迎の風景は見られなかった。使節一行は攘夷の風潮に押され、自ら進んで米国での見聞体験を語ることを控え、関心を持って訪ねてくる人だけに語ることが多かった。 「一行が帰国した当時は、桜田門の事変のあとで鎖国攘夷を叫ぶ声がさかんとなり、ほとんどのものが口を閉ざして米国の進んだ文明を語ろうとしなかった。小栗ひとりはばかることなく米国の進んだ文明の見聞を説き、政治・軍備・商業・産業については外国を模範とすべきだ、と遠慮なく論じて、幕府のものたちを震え上がらせた」(福地源一郎「幕末政治家」) |
瓦版「使節の帰国」 東善寺蔵 ![]() ▲右下、5人の人物は出発を伝える瓦版と同じ絵だから、元の絵の右上にあった蒸気船の絵を外して西洋館の絵と入れ替えた(手抜きした)とわかる。 |
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| 瓦版「使節の帰国」の解読 ・遣米使節と咸臨丸の話が混ざっている ・文章に誤りや意味不明が多い ・茶色文字は「出発の瓦版」の説明文 他は「帰国版」と同文 |
上部の使節メンバー表 右からタテ書き・太字は遣米使節一行、他は咸臨丸一行 ( )は村上泰賢補注 |
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| 頃は安政六年五月より五ケこく(国) かうえき(交易) 御免仰付られ これによって 亜墨利加ワシントン府に 御上使をおくられ 御巡見仰出され候御名まへ上へにしるす 當安政七申年正月十二日 品川沖に有之候 咸條(臨)丸と申御船に乗込 同十三日出帆いたし 横濱までのり越す また品川沖へ帰帆して同十九日 ホウハツメン(ポウハタン)といふ船ともに一同出帆す 尤も亜墨利加船 海上あんないとして蒸気船一艘 但し長サ五十間幅二十間なり 日本の船は長サ四十五間余幅15間なり 是に大炮三十挺なり 惣御同勢千百余人なり 船中働き水師百五十人是はみなま⬛️人なり 御普請役格にて江川太郎左衛門様手代中濱万次郎様乗組なり 此万次郎と申は土佐国中濱の漁師なりけるが 天保十一年子正月月五日 へうりう(漂流)して亜墨利加ワフ国に吹つけられ十ケ年のあいだこのくににいて 嘉永五年子八月おらんだ人におくりとどけられしを⬛️⬛️⬛の国のことを よくわきまえしゆへ此度乗組仰付られあめりかにいたる あめりか カリホルニアカビフルのみなとまで北太平海をのりて五千里蒸気 船にて二十日路なり 是より東紅海のいりうみにいたる それより あめりか 泊流川にいたって四百里 またワシントンのみやこまで陸地二十里なりとぞ 亜墨利加国へ被下し品々 一 御太刀 二 腰 一 御簾屏風 一組 一 御鞍鐙 一 組 一 御料紙硯 壱組 一 御違棚 一 ツ 一 銀之御幕 十組 一 大和錦 十 一 狩野家筆富士山の絵三百 一 縮緬細工花かんざし 千 *以下は「帰国版」にのみアリ 万延元年六月木村摂津守様并勝麟太郎様御両人は 亜墨利加国より御同船にて御帰帆 新見豊前守様村垣 淡路守様御二タ人は五月亜墨利加ワシントンフ御出帆にて夫より 英吉利国魯西亜国波尓杜瓦尓南京天竺右五ケ国御巡見致成 九月廿七日御帰帆に相成る 誠に我皇国の御異勢にて古今になき 御次第なり 亦余国の風俗気候等はくわしくしらべ追々に売出す |
軍艦御奉行 木村摂津守様 外国御奉行 新見豊前守様 同 村垣淡路守様 御目付 小栗豊後守様 南f御番上席御番 白須甲斐守様御組 御軍艦教授方頭取 勝麟太郎様 御軍艦操練所勤番組頭 佐藤柳太郎様 浦賀御奉行組与力 佐々倉桐太郎様 江川太郎左衛門様手代 肥田濱五郎様 同 下役 小永井五八郎様 江川太郎左衛門様組同心 鈴木勇次郎様 御⬛️⬛️役格 中浜萬次郎様 御勘定組頭 森田岡太郎様 外国御奉行支配組頭 成瀬善四郎様 同⬛️役 塚原十(重)五郎様 中村栄蔵様 |
御勘定格御徒目付 日高圭三郎様 刑部鉄太郎様 外国支配定役 吉田左五左衛門様 松本三之丞様 御普請役 益田(頭)俊(駿)次郎様 益頭駿次郎 辻芳五郎様 支配勘定格通詞 名村五八郎様 立石得二郎様 御小人目付 栗島彦八郎様 塩澤彦治郎様 寄合御医師 宮崎立元様 御番御医師 村山伯元様 松平肥前守様御医師 川崎道民様 牧野越中️守様御家来 小野友五郎様 松前伊豆️守様御家来 ⬛️田脩郎様 ◆正式な「万延元年遣米使節団員名簿」はこちら(hp遣米使節子孫の会へリンク) |
| 1,遣米使節が乗船したポウハタン号を咸臨丸への「海上あんない」のためと書くのは、攘夷の風潮に対する忖度か。 2,咸臨丸がサンフランシスコから帰り、遣米使節はワシントンから地球一周して帰国したことを、伝えていない。経由した国も誤り。 3,アメリカの新聞が一行の行く先々で正確な記事を絵入りで報道しているのを見てきた遣米使節一行。帰国後すぐに小栗が新聞発行を幕閣に提議したが、「外国人が日本で発行しているが誤りも多い」「時期尚早」と却下された。却下されて「年寄りどもは話せない」と舌打ちをした気持がわかる。小栗が、正確な情報を伝えることは政治にとって大事な要素と考えていたことがわかる。 |
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| 尊王運動とは | 攘夷じょうい運動とは | |
| ふつう、天皇を敬うという意味だが、本来は仁徳による統治「王道」を説く老子の理念に基づくもので、中国の伝説にその考えがあらわれている。 伝説の皇帝「尭ぎょう」は理想の政治「鼓腹撃壤こふくげきじょう…国民がたっぷり食べられ、腹つづみで地を撃って踊り楽しむ」理想の政治を行なった。そして尭は皇帝の地位を息子ではなく、有徳の士「舜しゅん」に譲った。舜もまた同様に理想の政治を行い、皇帝の座を有徳の士「禹う」に譲った(禅譲ぜんじょうという)。 あくまでも伝説の話だが、その伝説を日本では誰か、と実在の醍醐天皇(延喜えんぎ・901ごろ)と村上天皇(天暦てんりゃく・948ごろ)が摂政・関白なしで直接政治を行なった(天皇親政という)から中国の理想の皇帝「尭・舜・禹」と同じだ、「延喜・天暦の時代が理想だ」とあてはめて解釈し、「天皇親政」の邪魔になるのが幕府政治、と排する倒幕運動につなげた。 ただし、 ◆天皇が禅譲ではなく、世襲でその子に地位を譲っている点は目をつぶって無視している。 ◆醍醐・村上天皇はたまたま部下に摂政・関白になる人物がいなかっただけで、「目立つほどの良政をした」という学説はない。 明治政府は「天皇親政」をめざし、天皇を現御神(あきつみかみ・神樣である人)とし、昭和20年(1945)12月末日まで国民統治の絶対権力者とした。 ![]() ▲生麦事件 攘夷運動につながって起きた事件 |
●中国の中華思想(中国が世界の中心で文化が栄えている国。周辺の国はみな東夷とうい・西戎せいじゅう・南蛮なんばん・北狄ほくてきとして、劣った野蛮な国と見下みくだす考え)が朝鮮~日本に伝わって、隣国や外国を低く見る考えの基本になっている。 ●トルデシリャス条約 によるポルトガル・スペインの侵略=鎖国 ローマ教皇からスペインは西へ、ポルトガルは東へ植民地(=カトリックのキリスト教国)を広げるよう裁定(トルデシリャク条約)があって、 スペインは西(南アメリカブラジル以外のほとんど)と南太平洋の島々をスペイン語圏=植民地とした。 ポルトガルは東へアフリカ大陸~インド・ゴア~中国のマカオを経て日本に接近してきた。 それを警戒した秀吉の「バテレン追放令」、家光のキリシタン弾圧・禁教令・海外渡航禁止などを背景として、江戸時代はカソリックを排除し、プロテスタントのオランダが長崎での貿易を許されていた。 ●攘夷運動が過激化 日本が外国との交渉をせざるをえなくなった幕末に、外国のものはすべて汚れている、わが国から外国人を追い出せ、日本固有の文化を守れ、とする排外運動が過激化した水戸学を中心に広まった。ふつうの外国人がいきなり刺され、殺される。外国人の使用人(中国人や日本人)や、外国との貿易をする商人、開国派とみなされた日本人が刺され、殺される事件が頻発した。 ◆過激な攘夷運動の矛盾 尊王攘夷の思想は 漢字と漢字から作り出したひらがな・カタカナの文字を使って考え伝えている。その中国渡来の漢字は排除しない。矛盾に目をつぶり無視している。 ●幕末日本の近代化を攘夷運動で足踏みさせた後、明治政府は政治権力を握ると攘夷運動などすっかり忘れたように振る舞い、幕府の近代化政策を踏襲、「鹿鳴館」に代表される急速な欧風化政策に切り替えた。 |
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| 廃仏毀釈はいぶつきしゃく | ||
| 攘夷運動が過激化すると明治に入って「仏教は外来宗教」として寺院を襲撃して仏具を壊す、経典・仏像を燃やす、寺を破壊し、僧侶を還俗させるなどの過激な廃仏毀釈運動が全国に広がった。 ◆東善寺境内の石仏も、首を落とされたものがたくさんある。 |
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